情報武装によるストラテジーが、生活者にまで浸透した。
知恵の受信者から発信者へと革新が起こり、
すべての枠組みを超えて、ついに生活者自身を戦略家へと育て上げた。
情報を自在に操る手段を手にした生活者は歩き出し、
そして今、情報戦略家として新たな舞台へと降り立った。
■社会の裏側が浮かび上がる
情報化社会の進展は、生活者が情報に触れる機会を増やし、そこから得られた恩赦は、価値観の多様性を生み出し、物ではない心の豊かさを実践できる土壌を作り出した。生活者が情報発信に対して抵抗感を抱かなくなる、心的インフラ整備によって価値観の多様性は、ますます拡大していくことだろう。その片鱗として、TwitterやFacebookに投稿されたイタズラ写真が物議をかもすなど2013年は情報化社会における一つの課題を明らかにした。それはSNSの広がりから、生活者自身の判断力以上に受発信が自在に行われるようになったということだ。しかも、その通信エリアは世界規模で広がっている。そのため、安易に情報を露見しようものならば、一瞬にして世界中に伝わるということだ。つまり、これは情報の「露見」と「隠蔽」をジャッジする場面というのが、生活者自身のとても身近なところに存在していることを意味している。この「隠蔽」と「露見」を如実に表すものとして、食品偽装問題がある。担当者間でしか交わされていない「極秘情報」が露見し大きな社会問題となって浮かび上がった。これも、生活者が「隠蔽」と「露見」を気軽に実践できることになった結果、発覚した問題だったのではないだろうか。ここで示された問題提起には、生活者自身に内包する課題を示唆するものでもある。
■情報化社会は変装社会
ここで露呈した課題は、情報化社会における負の部分、ネガティブなものだ。偽装という問題は、提供者論理の中で編み出された手法である。つまり提供する側からすれば、広告宣伝を行うことによって生活者に購買意欲を高めてもらう必要があった。その役割を担ってきたものが、コピーワークだ。それは、形容詞を重ね合わせていくことで本質を美化してきた。そこに実態が伴わない場合、偽装となる。偽装問題は、実態とそぐわない表示がなされていたことにある。これまでの提供者論理によって多彩なコピーワークが生み出され、消費者心理をわしづかみにする技術が磨かれてきた。この一方通行の発信が問題の根底にある。多彩な語彙を組み合わせて魅力的に伝えていくという方向性を指弾するつもりはないが、決して「嘘」が推奨されるべきではない。翻って、これまでとは違う情報化社会に突入し、生活者がインターネットという発表の場を持ったということは、このコピーワークの場を得たということでもある。日々の感動を多彩な言葉を駆使して表現することで、友人、知人に感動を共感したいという欲求は、日常の中にある幸福を発信したいという感情とも重なる。この「共感連鎖」という着眼は、提供者側から消費者に向けた情報発信の流れと本質的には何ら変わりない。この戦略的に美化された情報発信が一般化した社会、これを『変装社会』と表現したい。
■美意識の高まり
『変装社会』が意味する、誰もが変装しながら生きている社会について、決してネガティブに捉える必要はない。古来より、社会は本音と建前によって成立してきたのだ。しかし、これまでとは異なる部分は、価値観が多様化しているということである。それは、この変装が従来以上に複雑化したことを意味している。個々の価値観において個人が主人公となる小社会が構成されるようになっていくのだ。その小社会において個人が、メタモルフォーゼを繰り返し、変装の行き着く先に価値観の確立となって現れてくる。こうして多様性がフレキシビリティある価値観を帯同してくる。情報社会の本質は、そこにある。価値領域内に存在するコンセプトが変わると新たなセンスとアイデアが生み出されていく。この相乗効果は、いわゆる変装が生み出していくものだ。その変装自体がつまらなければ、価値は生み出されない。しかし、それが魅力的であれば、新たな価値を生み出すのだ。裏を返せば、情報社会は隠す社会でもある。情報を公開することで、魅力が廃れるのであれば生活者といえども公開するはずがない。隠蔽しているわけではなく、活力のある変化を生み出すために伏せるという認識だ。この生活者自身が情報操作にまで手を伸ばしている現状を「情報武装」と表現したい。この流れがますます価値観を活性化していくのだ。
■変装コンセプト
変装社会の時代となった今、地球規模の国家間の対立は、変装国家として様々な部分で対応している。それは、一方的なフレームワークを超えて境界線を策定しようと動き出すことすら有名無実化してしまうのである。しっかりと変装社会ということを認識し、変わっていくことに対する心積もりをしておくことが必要である。その現実を踏まえれば、日本を東京を世界に発信していくには、固有の文化を素敵に紹介していくことが求められるのだ。日本はすばらしい歴史文化を持つ国であることを内外に知らせ、日本の魅力を感じてもらうことが重要となるのだ。その具体的な提案として、例えば、世界遺産となった「和食」に代表されるような、オーガニッククッキングも、世界に向けて発信していければ魅力的な印象を持たせることができるのではないだろうか。そのほか、温泉宿が都市の中に存在していることで、都市にいながらにして四季を感じられるという贅沢な空間を演出できるのではないだろうか。庭という可能性を秘めたランドスケープで国際社会への変装を可能にするのである。この都市と自然が共存する国として、発信しインバウンドツーリズムを巻き起こせば、2020年のオリンピックに向けた予行演習としても機能していくのではないだろうか。この体験よって生まれる共感の輪は世界にまで日本の魅力を轟かせるためには不可欠な要素だといえる。
■使用価値がもたらす幸福論
この「体験」とは、「使用」とリンクする。物を使用することで体験できる。それは所有とは意味合いが違う。使用されてこそ、魅力が生み出されるのだ。つまり、現場に出て実体験しなければ魅力とはならないということを表している。変装社会の今、その体験談が日常の中で交わされれば、魅力は更に高まって伝わっていくことだろう。その表れとして、日常の風景の中にコーヒーが組み込まれた。いまや日常品が揃うコンビニでもこだわりのコーヒーが飲めるようになり、生活者の暮らしの中に更に溶け込んでいった。すると、使用価値が膨張し、日常の幸福論を高めていく。すなわち、変装社会にある今、物であっても素敵な情報として認識していることを理解しなければならない。これは生活者にとって日常生活で使用されないものが淘汰されていくことまでも内包している。さらにコストパフォーマンスの着眼が高まり、厳選圧縮した暮らし方が活性化していくはずだ。これは物だけではなく、暮らし方にも同様に言える。あらゆる物やライフスタイル、人までもが情報として認識され価値が構築されていくことを理解しなければならない。裏を返せば、変装社会では生活者自身が「利用したい」という願望と重なってこそ、価値が活性されていくのだ。素敵な日常の風景として切り取られていくように仕掛けを考案していかなければならない。
■実体は後から付いてくるもの
2014年は変装社会という認識が高まっていく年となることだろう。世界を仮面舞踏会の会場と例えるのであれば、ペルソナを被った人たちがステップを踏みながら踊り明かしている様子が今の社会といえるのではないだろうか。生活者一人ひとりがプロフェッショナルというハイクラスなドレスコードに身を包み変装した姿で語らいの場を持っている。しかし、この仮装はいずれ実体を伴って社会の中に浸透していくだろう。そのため、どこか風刺的に見えてしまう揶揄の表現も、この仮面舞踏会という世界には自虐的でもなく、否定的でもない、ただまっすぐに肯定的な仮装となるのだ。それは男性も時には女装し、女性も男装を披露し、性差の区別が付かない状況という中間という概念が拡大し大きな広がりとなることだろう。しかしながら、この変装は決して偽りではない。自分を戦略的に変装させることで、舞踏会の会場も変装する雰囲気が漂い、新国際人が表現力を競うように突き抜けていくのだ。それが地球全体に広がっていくことで社会を構築していく。2014年、変装社会は表現力を搭載し未来を描き出す。そして素敵な話が新たなツーリズムやスポーツエンターテインメントなどと連動した体験というムーブメントとなって実体が後から寄り添うように付いていくはずだ。2014年、変装社会という情報化社会の次なるステージに入り込んだことを認識しておきたい。