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谷口正和 プロフィール

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2009年4月30日

生きる。

 


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私の母である。

今年91歳である。

先日一緒に昼を食べた。

一人でマンションに暮らしており、

もうゆっくりとしか歩けないが、

気が向けば百貨店へ行ったり、

美術館に出かけたりしている。

 

生涯現役とは、自由、自立、自主によって支えられて

いるのだとつくづく思う。

過度の愛情や保護、行き過ぎた構えは、

かえって人の生き方を邪魔するのかもしれない。

母は今日も独りで元気に楽しく生きている。

2009年4月27日

琳派に想う。

 

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 俵屋宗達、本阿弥光悦、尾形光琳、尾形乾山、鈴木基一と続く

日本絵画の一大流派、それが「琳派」だ。

戦国時代から江戸初期へと続く激動の時代に、

今で言う「琳派」は、俵屋宗達を嚆矢として生まれた。

本阿弥光悦は、家康から洛北鷹ヶ峰の地を拝領し「光悦村」を作った。

さまざまな分野の町衆の文化人や職人、芸術家たちを集めて、

独自の文化を築きあげた。

400年も前にアート・ヴィレッジがあったことに感動する。

 

近代以前にアーティストはいなかったという。

近代以前にいたのはアルチザンであり、

彼らは近代以降のアーティストのように

自己表現のために絵や彫刻を作ったのではなく、

その時の権力者や富裕な町人のためにアートを制作していた。

お抱えだったのである。

これはミケランジェロやダヴィンチ、

モーツアルトやバッハなどについても同じことが言える。

 

しかし今日の目から見れば、どれもが燦然たるアートである。

自分に対する評価者がはっきりしており、

生活はすべてそのパトロンにかかっている。

自己主張や自我などという甘えが出せる余地はなかったのである。

その分、技術と感性は圧倒的に研ぎ澄まされ、

自ら知らぬうちにその時代を代表するアートとなっていく。

それを私たちはかけがえのないものとして享受しているのだ。

 

絵はすべて尾形光琳。日本美術絵画全集(集英社)より。

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2009年4月20日

時間に「起点」を与えよ

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宇宙が始まって、宇宙が終わるまで、時間は永遠に流れている。

人生もまた、生を受けてから終わりの時を迎えるまで、時間とともにある。

日野原重明先生が言うとおり、命とは時間のことだ。

 


当社の時間も、月曜日の朝礼から始まる。

月曜日の朝が、当社の時間の起点だ。

社会は時間の波でできていよう。

一日の波、一週間の波、一ヶ月の波、四季の波、

一年の波、そして生涯の波。

生涯の波も一日、一週間の波でできている。

 

その中でも一番大切にしなくてはならない波が、一週間の波だ。

生涯を大切にしようと思ったら、

まず一週間の波に乗り遅れては駄目である。

一週間の波に乗り遅れると、生涯の波に乗り遅れる。

腹をくくり、覚悟を決め、まず一週間の波に

タイミングよく乗ることが何よりも大切だ。

 

情報は時間の価値、サービスは気の価値。

この激流の時代、全員覚悟を決めて働こうと呼びかけたい。

 

 

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2009年4月16日

聖地巡礼

 

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アーティストは生涯をかけて自分の作品を作る。

その意味では、アーティストは旅人であり、

さらに言えば永遠の巡礼だろう。

 

野町和嘉氏は、その意味で聖地を旅し続けてきた巡礼だといえる。

野町氏の写真展『聖地巡礼』が、

東京都写真美術館で5月17日まで開催されている。

 

35年に及んだ取材地は、ナイル川流域からエチオピア、チベット、

南米のアンデスまでに及ぶという。

まさに地球規模の聖地巡礼である。

大きく巡礼の風景をとらえた作品から、

人の心を覗き込むような小さな作品まで、

確かに巡礼する人間の心がとらえられている。

 

 

英語における「旅」には以下の用法があって、最後に来るものはやはり巡礼である。


TOUR     観光や視察のため、諸所を歴訪して出発地へ帰って来る旅。

TRIP     距離の長短にかかわらず、必ず帰ってくる旅。英国では特に短   
       い旅を指す。
JOURNEY    割に長い旅。その全部または大部分が陸地。
                     もとへ帰る意味は必ずしもない。
TRAVEL    一番広い意味の旅。多くは遠地や外国へ。

VOYAGE    遠距離の船旅あるいは空の旅。商用、観光いずれにも使う。

EXPEDITION  組織化された観光旅行。特定の目的(探検、学術、研究、
                      戦争など)を持つ旅。遠征、調査旅行。
PILGRIM    信仰が目的で聖地などを訪れる旅。巡礼。

 

人間の最後の旅はやはり「巡礼」だろう。

そのような時代にますます入ってきた。

時代が野町氏にようやく追いついてきたとも言える。

 

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2009年4月14日

疎水、哲学、風流

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写真は京都の哲学の道、それに沿って流れる疎水である。

この疎水は、琵琶湖から引かれている。

桜が花盛りなので、人の行き来が絶えない。

かつて西田幾太郎や河上肇が思索しながら歩いた哲学の道は、

今日ばかりは花見の道である。

 

水と花。道と人。

自然に親しみ、自然を愛でることを

千年以上やってきた日本人の小さな原風景がここにはある。

一言で言えば「風流」である。

風と流れ、いずれも目に見えないものだ。

 

情報の時代だ。情報はいくらでもあり、情報使いの差が、

日々のすべてを決するような論調が大勢を占めているようである。

しかし、待てよ、である。

情報はあなたを振り回すものでもあるのだ。

そうか、なるほど、だけでは本当の答えは見つからない。

自分の考えはどうした、である。

 

哲学とは孤独の学問だ。

自問自答でしか答えが見つからない世界である。

西田幾太郎も河上肇も、

哲学の道を一人自問しながら歩いたのだろう。

私たちも時には、一人で歩かねばならない。

哲学の道は街の中にもあり、また野山にもある。

人は魂の散策者なのだ。

 

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2009年4月13日

暮らすように旅し、旅するように暮らす。

 


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日本文化の深い理解者、アレックス・カー氏と梶浦秀樹氏ら

が設立した株式会社「庵」は、

「京町屋ステイ」をはじめとして、数々の文化事業を行っている。

私も京都ブランド研究会の座長を務めている縁もあり、

微力ながらお手伝いさせていただいている。

 

先日、その町屋を訪れたが、感慨深いものがあった。

日本人の本来の暮らし方のひとつに、

私流に言えば、「暮らすように旅し、

旅するように暮らす」というコンセプトがある。

西行、芭蕉、山頭火、尾崎放哉など、

旅に生き、旅に暮らした芸術家は枚挙に暇がない。

鴨長明、良寛なども、心は旅し続けた人々だっただろう。

 

どのような生き方をしても、心に漂泊を抱えているのが、

日本人の心性のひとつと言える。

それは現代を生きる私たちにとっても、

心の奥深くにしまいこまれているが、

まだ脈々と生き続けているDNAであろう。

京都の町屋は、そのような日本人の心に訴える。

 

物の所有を捨てて、心の充足に生きる。

これからの時代と日本人の心性は、見事に重なっているように思える。

 

 

 

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2009年4月 9日

きらめきと永遠

 

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「まぼろしの薩摩切子」展がサントリー美術館で開かれている(5月17日まで)。

英文のサブタイトルを見ると、

A glittering interlude:Visions  of Satuma-kirikoとある。

glittering interludeとは、限られた短い時間の間の輝きだ。

ご存じの通り、薩摩切子は、薩摩藩が幕末から

明治初頭にかけて生産したガラス細工、カットグラス(切子)である。

島津斉彬公も愛し、篤姫の嫁入りの品ともなったという。

幕末から明治初期にいたるわずかな時の光芒の間に生まれた、

まさに「一瞬のきらめき」である。

 

しかしその美は永遠化した。


一瞬を永遠化できるものは芸術だけだろう。

まるで時間が結晶化したような薩摩切子の美は、

器に無限の時の流れを封じ込めたようである。

人は物を観ているのではない、

永遠化された時間の美を見ているのだ。

 


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2009年4月 7日

「一枚の布」の哲学

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伊藤忠ファッションシステムの川島蓉子氏が

『イッセイミヤケのルール』(日本経済新聞出版社)

という本をお書きになった。

「デザインビジネスとは何か」ということである。

 

どのような美も、ビジネスの原則に乗らなければ成り立たない。

同社には太田伸之氏(代表取締役社長)という

優れたマネージャーがいるが、

三宅一生氏の類まれな感性をビジネスとして

生かしきる手腕に長じているに違いない。

 

ファッションであっても、基点は常に小売である。

顧客接点としての小売現場において、

顧客から支持されない限り、世の中に成立する商品はない。

 

イッセイミヤケのファッションは、

常に日常の感性に視点を置いているようだ。

言ってみれば「用の美」である。

日常と遊離しないところに、本物の美はある。

どこまでも信じる哲学と原理原則を貫いているところに、

三宅一生氏の「一枚の布」哲学の凄みを感じる。

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