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2009年4月14日 疎水、哲学、風流
写真は京都の哲学の道、それに沿って流れる疎水である。 この疎水は、琵琶湖から引かれている。 桜が花盛りなので、人の行き来が絶えない。 かつて西田幾太郎や河上肇が思索しながら歩いた哲学の道は、 今日ばかりは花見の道である。
水と花。道と人。 自然に親しみ、自然を愛でることを 千年以上やってきた日本人の小さな原風景がここにはある。 一言で言えば「風流」である。 風と流れ、いずれも目に見えないものだ。
情報の時代だ。情報はいくらでもあり、情報使いの差が、 日々のすべてを決するような論調が大勢を占めているようである。 しかし、待てよ、である。 情報はあなたを振り回すものでもあるのだ。 そうか、なるほど、だけでは本当の答えは見つからない。 自分の考えはどうした、である。
哲学とは孤独の学問だ。 自問自答でしか答えが見つからない世界である。 西田幾太郎も河上肇も、 哲学の道を一人自問しながら歩いたのだろう。 私たちも時には、一人で歩かねばならない。 哲学の道は街の中にもあり、また野山にもある。 人は魂の散策者なのだ。
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