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谷口正和 プロフィール

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2009年6月30日

バス停の朝。

 

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私が毎朝乗っているバス停には、いつも花が咲いている。

どなたかが丹精込めて裂かせてくれているのだろう。

ありがたいことである。

 

バス停は小さなパブリックスペースだ。

そこに小さな公園という概念を持ち込めば、

単なる待つ場所ではなく、小さな休息の場所になる。

花は人の心をやわらげてくれる。よく見れば、

その小さな花弁は造化の妙であり、

その色の美しさはため息が出るほどだ。

 

最後の写真は、

子どもの手を引いて近くの幼稚園へ向かう老人の写真である。

ジジとマゴだ。

これからの家庭は、核家族を脱して、三世代、四世代がいい。

そこに生活の知恵も伝承され、

暮らしの潤いも引き継がれるだろう。

まるで咲き続ける花のように。

 

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2009年6月29日

だまし絵の世界。

 


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東急BUNKAMURAが20周年を迎えた。

現在「奇想の王国~だまし絵展」を開催している(8月16日まで)。

なんと驚いたのは、大変な人が集まっていたことである。

入場券を買うのに行列ができていたほどだ。

百貨店には人が来ず、文化展には人が集まる。

時代の変化を物語るかのようである。

 


ところで「だまし絵」である。

人の錯視を利用しただまし絵は、

見るということの面白さと危うさを表現している。

我々が日常見ている風景さえも、

単なる一枚のキャンバスに描かれただまし絵かも知れないのである。

コンピュータグラフィクスやバーチャルリアリティなどは、

だまし絵が最高度に進化したものといってもいい。

我々が絶対正しいと信じている五感でさえ、

何かにだまされている可能性があるのだ。

だまし絵から手品まで、人はだまされることに快感を覚える。

不思議な生き物である。

 


展覧会には、当然のことながら、

だまし絵の天才、ルネ・マグリットの作品もあった。

私が学生の頃から好きだった画家の一人である。

今見ても、はじめて見た時の興奮がよみがえる。

 

 

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2009年6月25日

HOW TO MAKE MOVIES?

 


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映画がますますメディアとしての存在位置を高めつつある。

高度映像の世紀としての21世紀は、

バーチャル・ビジュアルとしての映画を、

最高度のエンターテインメントとして位置づけつつある。

 

私の長年の友人である金子満氏

(東京工科大学大学院メディアサイエンス専攻教授)が、

一冊の映画作りのバイブルとでもいうべき本を送ってくださった。

「ザ・ムーヴィビジネスブック」である。

500ページ以上の大著で、編者はジェイソン・E・スクワイア氏。

金子満氏が日本語版を監修している。

プロデューサー、ディレクター、スクリーンライターなどの

専門家がどのように自分の役割を果たしていくか、

肝心要のお金のマネージメントはどうなっているのか、

プロダクションの役割は?マーケティングは?

興行収入そのほかの収入は?その予測の立て方は?など、

およそ映画を作るために必要なノウハウが網羅されている。

1本の映画を作るための全プロセスが書かれている。

 

映画的な才能だけで映画はできない。

映画はビジネスだからだ。

映画作りを目指す人のためのバイブルと言っていいだろう。

貴重な本である。
 

2009年6月24日

音・・・見えざるデザイン。

 

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私たちは、デザインとは見えるものによってできていると思っている。

それはたぶん違うだろう。

優れたデザインは、その半分以上見えざるデザインに負っているのだ。

建物を見るということは、空間を見ているということであり、

私たちは実はその見えざる空間を見ているのである。

最近建築物や自然のライトアップが盛んになってきているが、

光と影の演出によって、本来隠れて見えなかった意味が

浮かび上がってくる現象に驚かされることがある。

 


音は見えざるデザインの最大の要素と言えるだろう。

 

このたび青山大学総合文化政策学部教授である

鳥越けい子さんなどが翻訳した

「サウンド・エデュケーション」(R・マリー・シェーファー著、春秋社)を

鳥越さんからお送りいただいた。

音の環境のことを「サウンドスケープ」と呼ぶが、

私たちは常に何らかのサウンドスケープに

取り囲まれて生きている。

その環境は、一言で言えば、より機械的に、より直線的になっているだろう。

これが私たちの感性に影響を与えていないはずがない。

自然の本来のサウンドスケープは、

より曲線的であり、より多様である。よりファジーなのだ。


本書は一言で言えば、「音の聴き方」ドリルである。

100の課題リストに整理されていて、子どもだけでなく、

誰でも人間本来の豊かな耳の力を取り戻せるということだ。

音という、余りまだ研究されていない世界に、

ひとつのマイルストーンを刻む本だ。

 

鳥越さん、ありがとう。

2009年6月23日

京都のスモールコンセプト。

 


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京都の清水坂の一角に「山城屋」はある。

京の乾物屋さんだ。社長は真田佳武氏で、

奥さんの千奈美さんが専務を勤められているが、

千奈美さんは私の立命館大学のビジネススクールの生徒でもある。


京都の街はスモールコンセプトの集積である。

小さくても何か他にないものを追求していくのが文化だ。

だから文化は、アメリカ型のマスマーケティングにそぐわない。

山城屋も、五重塔が見える京都の清水坂で、

一途にスモールコンセプトを守り通している。

 

より小さく、より丁寧に、文化は一点に向かって求心していく。

日本文化の本質は「凝縮」にあるだろう。

決して拡大せずに、中心へ中心へと凝縮していくのだ。

天皇制が千数百年の永きにわたって、

日本文化の中心に位置しているのも、

この凝縮する文化志向と無縁ではあるまい。

ともあれ京都はスモールコンセプトの集合で

出来上がっている街であり、山城屋さんのそのひとつである。

 

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2009年6月22日

サヨナラ粟津潔さん。

 

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グラフィックデザイン界のリーダーの一人だった粟津潔さんは、

私の武蔵野美術大学2年のときの担任の先生だった。

デザインとは考えを表現するもの。

このことは粟津さんからそのころに教えてもらったものであり、

私の生涯のデザイン観の基本になっている。

 

粟津さんは『デザイン批評』という本の出版にも参画され、

当時の60年代から70年代くらいの日本デザイン界の論理的支柱になられた。

私にとって、同誌は、まさに知的刺激そのものだった。

私の今日の幅広いネットワークも、業界の狭い枠にとらわれず、

広く世界と交流せよといった、粟津さんの影響が大きい。

 

「サヨナラ粟津潔」というお別れの会が7月10日に開催される。

私も案内状をいただいたが、万やむを得ず出席できない。

誠に残念ですがこのブログを持って、お別れの辞としたいと思う。

 

サヨナラ粟津潔さん。


 

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2009年6月15日

巨いなる三人三様。

 

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写真家・土門拳の生誕100年を記念して、

「三人三様 勅使河原蒼風・土門拳・亀倉雄策」展が開かれている

(8月23日まで 土門拳記念館・山形県酒田市)。

見事なる三人三様だ。

いけばなの世界にまったく新しい美の存在を示した勅使河原蒼風、

写真界の巨人・土門拳、

そしてグラフィックアートの大いなる先達・亀倉雄策。

20世紀を駆け抜けたこの3人によって、

日本の美は世界に示され、

また私たち日本人にとっても目を見開く思いだった。

芸術の道とは人が拓くものだ。

それは荒野を一人で歩く行為に似ているだろう。

精神の旅は、肉体の旅よりはるかにきついかもしれない。

ましてや誰も行き着かなかった美の世界にたどり着こうとすれば、

それはほとんど荒野をさまようキリストにも似て、

宗教者の世界である。

生涯をかけて自分たちの世界を上り詰めた

「三人三様」をぜひごらんいただきたい。

 

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2009年6月10日

画学生たち。

 

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武蔵野美術大学の仲間だった福田美弥子さんから、

展覧会のご案内をいただいた。

「福田美弥子展~動物と鳥・墨彩画」というものである。

みな還暦を過ぎ、もう一度青春回帰だろうか。

自由時間を得て、戻るところは同じ「画学生」である。

美術を志した人なら、やはり絵に戻るのだろう。

そこに本来進みたい道があったのかもしれない。

筆をとり、一心不乱に絵に取り組むその姿が見えるかのようである。

福田さん、さらに画学生の道をお進みください。

 

2009年6月 9日

赤と黒。伝え方の革新。

 


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草月いけばな展「赤と黒」が新宿高島屋で開催され、

私も拝見して来た。

「赤と黒。色から発想するいけばな」がキャッチフレーズである。

「草月いけばな展」は、

毎回新しいテーマに挑戦することで有名だが、

今回は「色」から生まれるいけばなへの挑戦である。

色を創造の原点とした場合、

どのようないけばな空間が生まれるのだろうか。

赤と黒という強い色彩の中にリセットされたいけばなは、

一見奇抜ではあるが、見事にインパクトのある色彩空間となって

いけばなの伝え方を革新していた。

スタンダールの小説「赤と黒」を誰もが想起するだろう。

それもひとつの演出である。

勅使河原茜さんは、いけばなを現代美術として再編集し、

見事に成功していた。

 

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2009年6月 8日

史から掘り起こされるもの。

 

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歴史がいかに物語の宝庫であることか。

日本人にとって、平安、奈良、それ以前の飛鳥、

また鎌倉から江戸、明治、昭和に至る歴史は、

想像力をかきたててやまない埋み火のようである。

NHKの大河ドラマは、その火種の役目を果たしている。

 

サントリー美術館で「天地人」展が行われている(7月12日まで)。

内容はすでに皆さんご存じの直江兼続の物語だが、

主人公が主(あるじ)ではなく、部下だというところが新しい。

ほとんどの歴史物語の主人公は「トップ」なのだ。

 

そう言えば、部下に英雄がいる時代なのかもしれない。

七人の侍以来、優秀な部下がチームで

活躍するのは日本のお家芸である。

大ヒットしているルーキーズなども、この伝統の上にあるのだろう。

 


合わせて2009年は新潟県大観光交流年であることもお知らせしておく。


 

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2009年6月 4日

コンセプト・イラストレイテッド

 


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これは私が常日頃描いている、

言ってみれば「発想の絵葉書」である。

私の発想は、どちらかと言えば

ビジュアルとキーワードが同時に出てくるようで、言ってみれば

「一枚のコンセプト・イラストレイテッド」になって現れる。

 

現在の最大の関心事は、やはり地球と生命である。

具体的には「農」がキーワードだろう。

生命の源は「食」だ。

動物は本来、24時間、いかに食べるかに集中している。

ペットもライオンも、その意味ではともに

「必死で食べる動物」である。

食べるイコール生きるであって、

それ以外は目的化されていないかのようである。

 

考えてみれば人類だって、

その第一歩を踏み出したとされる800万年前から、

食べるイコール生きるであって、

食べることしか頭になかった。

哲学とか芸術といった「食」以外の分野に

目覚めたのはここ1万年くらいの話だ。

人類もまたほとんどの時間、

「必死で食べる動物」だったのである。

 

しかし、食が生きることから遊離し、

食べることがグルメとなって久しい。

その思慮のなさに、自然界から一撃を食らっているのが今である。

もう一度生命と食について、全員謙虚に考え直す時代が来た。

 

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2009年6月 2日

ライフスタイルツーリストのお土産

 


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旅が文化移動の最大の活性軸になった。

人は暮らすように旅し、旅するように暮らす。

そのような時代、大きな産業カテゴリーになると

予測されるものが「お土産」である。

そのお土産の中で、最小単位でありながら、

旅の濃密な記憶を込められるもの、

それは「絵葉書」ではないだろうか。

絵葉書はもっと注目され、再編集されていいものである。

各観光地には必ず絵葉書があるが、すでに陳腐化し、

その土地の遊山シンボルにはなっていても、

文化シンボルになりえていない。

もっと世界目線から、また文化目線から創造されていいだろう。

 


企業のコーポレートカードとして絵葉書を活用することも考えられる。

通常ビジネスにおいては名刺を交換することは当たり前であるが、

「当社はこんな文化を担っています」という意味で、

「絵葉書交換」などが行われれば面白いだろう。

絵葉書は言語差、文化差を越える「絵言葉」なのだから。

 

 

 

2009年6月 1日

都市論

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浜野安宏氏が、新たな都市論を展開している。

著書『生活地へ』(学陽書房)である。

帯に「愛する我が街を持て、護れ、再生せよ」とある。

なるほどと納得させられたのは、

巻末の「日本を『幸せの国、地方』にするための100の行動計画」だった。

 

1.生活にも街づくりにも作法を持って計画し、行動する。
2.公共レベルの低いデザイン、サービスの建築物、リゾートなどの再利用、再開発を促進する。
3.空中に張り巡らされた電線をすべて埋める。
・・・
・・・
100.子どもたちの、子どもたちの、子どもたちへ幸せのマチを手渡せる地域に。

などである。

 

基本は「都市を人間のものへ」だろう。

まさに浜野氏のいう「生活地へ」である。
私も今『アート&シティ』という都市論をまとめているが、

今ほど新しい都市論が求められている時代もあるまい。

 

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