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2010年4月27日 センスの美学。
このたび池尻大橋に開店したインテリアセレクトショップ 「センプレ」の代表取締役 田村昌紀氏は 私の武蔵野美術大学の後輩である。 大変ステキなインテリアセレクトショップをいくつも運営なされている。 このたび大橋ジャンクション前にニューショップをオープンし、 合わせて通販カタログをお送りいただいた。 表紙の店内からジャンクションが見えるが、 お分かりいただけるだろうか。 まさに東京というモダンシティの一角である。
インテリアとはライフスタイルにおけるトータルデザインだろう。 一つ一つの椅子やテーブルのデザインも大切だが、 一番重要なのは全体をコーディネートする俯瞰的な目、センスである。 美は最終センスに赴く。 インテリアショップはそれで決まるだろう。 センプレがますますセンスを磨かれていくよう願ってやまない。
2010年4月26日 ニュースの中の知人たち。
私の知人が3人も、同一紙面の中に登場している。 武蔵野美術大学の同級生であるフーチプランニング社長の福田千和子さん、 高島屋東京店総務部顧客グループ担当部長コンシェルジェの敷田正法さん、 そして協同組合浅草おかみさん会理事長の冨永照子さんのお三方である。 紙面全体は「繊研リテイリスト支援キャンペーン」であった。 接客のプロを目指す新人へのアドバイスである。 福田さんは「仕事はコミュニケーション」、 敷田さんは「お客様から見て好ましい人に見えているか」、 冨永さんは「学生言葉は閉じ込めて」。 いずれも新人にとって重要なポイントである。 ともあれ知人が活躍をしているのを見るのはうれしいものだ。
2010年4月20日 農業人。
急に農業に対する自覚が生まれ始めた。 工業化一辺倒でやってきた近代日本も、 大きな曲がり角に差し掛かっていることが、国民の共通認識になってきた。 「農」は本来、自然とともに生きてきた日本人の基幹産業である。 近代によって抑圧されてきた「農」のDNAが 世界的な自然共生思想とともに再びよみがえったといってもいい。
JAコア人材育成研修会という、 これからの農業人を育てる育成会の「終了レポート集」である。 私もマーケティングの立場から、講義させていただいた。
どのような産業も「人」である。 人の情熱が、産業の構造を変えていく。 人以上のエンジンはないのだ。 特に農業のような自然を相手にする産業は、 人なくしてその成長は考えられない。 一回は工業化しかかった農業を、 いかに人の手に取り戻していくか、 私も支援して行きたい。
2010年4月19日 立命館へ来る君へ。
立命館開学の趣旨と学ぶことへの姿勢を基本に、 先生方が自らのオピニオンを述べている。 学ぶこと以上に人間にとって重要なものはないだろう。 生涯学習というキーワードが認識されつつあるが、 これは何も高齢者だけではなく、 人は人生のすべての時期において生涯学習者なのである。 高度情報社会が到来しているが、 情報に感謝しない人に情報の真の意味は分からない。 情報こそ感謝して学ぶ対象なのだ。
少年から博士まで、国内国外を問わず、 学ぶ姿勢の根本は「未来的である」ということなのだ。 なぜなら変えられるのは未来だけだからである。 未来を変えるために過去も現在もある。 ともに大いに学ぼう。 2010年4月14日 織部の美。
代表取締役会長の桑田瑞松氏から一冊の本を手渡された。 『へうげもの 古田織部伝』(ダイヤモンド社)である。 著者は桑田忠親氏。桑田瑞松氏のお父上である。 古田織部と言えば千利休の高弟であり、 大胆かつ自由な作風を好み、 茶器、建築、造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる 独自な世界を安土桃山時代にもたらした人物である。 茶人であり武人であった。 最近漫画でブームになっているから、ご存じの方も多いだろう。 桑田忠親氏は東京大学の資料編纂官であり、 国学院大學の教授も勤められた。 本書はまさに古田織部の正統な編纂であり、 古田織部関連の書では決定版であると聞いた。 「へうげもの」とは「剽(ひょう)げもの」のことで、 一風変わった茶人と茶道具を指すという。 イノベーションは常に異端から起き、いつか時代の正統となっていく。 古田織部もまたあの時代のイノベーターだったに違いない。 2010年4月13日 カレッジリンク。
「カレッジリンク」という手法である。 カレッジリンクとは、大学(カレッジ)と地域社会が連携(リンク)し、 地域の誰もが大学でともに学びあう機会を創出する 新しい学習プログラムのことだ。 時代はまさに「楽習」の時代、 学ぶことがすべてのエンジンになろうとしている。
このカレッジリンクで、一歩先行しているのが 「千葉大学 柏の葉カレッジリンク・プログラム」である。 特定分野に特化するのではなく、 暮らしや地域に関わる問題を俯瞰的にとらえ、 市民の主体的な参加によって、 新しい仮説を導き出す「サスティナブルデザイン学」などが主な学習領域だ。
当社もこの「千葉大学 柏の葉カレッジリンク・プログラム」を
お手伝いさせていただいている。 公式ガイドの『「市民のチカラ」の活かし方』を作らせていただいた。 カレッジリンクの未来に、 新しい市民社会が開けてきそうだ。
2010年4月12日 和ガラスの世界。
サントリー美術館で、「和ガラス~粋なうつわ、遊びのかたち」展が 開かれている(5月23日・日曜日まで)。 私もご案内状をいただいたので、公開初日に見せていただいた。 なんと日本では飛鳥時代より、原料から加工まで一貫して 国内でガラス製造が可能だったという。 そういえば、古代の貴婦人の画像には、 ガラス細工の色彩豊かな装身具が描かれていたように思う。
しかし本格的にガラスの器作りが始まったのは江戸期のことだったという。 本展覧会は、この江戸から明治にかけて作られた、 驚くほど多様な「和ガラス」の世界を見せてくれる。 南蛮渡来のガラスという素材を、 日本人の美意識が見事に自分のものにしている。 光を通すというガラスの不思議な特徴は、 今でも私たちを未知の世界にいざなってくれる。 サントリー美術館は一貫して生活芸術をテーマにしているようだが、 この和ガラスもその代表的なものであろう。 なんとも美しかった。
2010年4月 7日 ARの世界。
何気なくバスの後ろを振り返ったら、 後ろの窓に何か不思議な装置がついている。
さてコレはなんだろうと考えていたが、はたと連想したことがあった。 それはARの概念である。 いわゆる拡張現実のことで、Augmented Realityの略だ。 現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術である。 メガネをかけて街を歩いていたら、周囲のビルに何が入っているか、 メガネにサイン表示されるような技術である。 映画のターミネーターの世界だ。 現実にはまだゴーグルのようなものを 付けなければならない初期段階だそうだが、 この技術が進歩すれば、いろいろ面白いことが起こるだろう。
バスの後ろについていた装置とは、東急バスに確認したところ、 運転手からは直接見ることができないバス後方の下部を見せる反射装置とのことだった。 AR装置といえないこともない。 日常の中には、多様な気づきが潜んでいるものだと思った。 2010年4月 6日 森は誰のものか。
日本の森林率は約7割。 先進国の中では、世界でも有数の森林大国と言えるだろう。 「文明の前に森があり、文明の後に廃墟がある」という言葉がある。 文明の振興は森を駆逐していくことと同意義だった。 しかし時代は「文化」である。文化の視点で森を見直したとき、 森はその土地、その文化の生態系の 重要な一環として組み込まれているのである。 本書『奪われる日本の森~外資が水資源を狙っている』(新潮社)の著者、 平野秀樹氏は、氏が林野庁にいられたころからの長いお付き合いである。 氏は本書で、意外な告発をしている。 それは外資が森を投資対象として買い、 しかも水資源にも触手を伸ばしているのだ。。 日本の自然生態系の要が、 いまやグローバル投資の対象となろうとしていると指摘している。 単なる自然以上の価値が日本の森にはあるのだろう。
森は誰のものか。 まずそこで暮らし、生きている人々のものだろう。 それは私たちの生命の根源に関わっている。 そのことに気づかない我々自身に、強く警告してくる本である。 拝聴したい。 2010年4月 5日 野に遊ぶ。
「野に遊ぶ」という興趣あふれるイベントのご案内をいただいた。 やむを得ざることがあり、当日出席はかなわないが、 その素敵な内容だけでもご案内しておきたい。 当日は茶席もしつらえ、さまざまな野遊びが行われるようだ。 薄茶席、中国茶席、ハーブティー席などである。 それぞれにふさわしい名人、達人がしつらえるようである。
野遊びは、万葉の昔から、日本人が愛してきた遊び方のひとつだ。 万葉集には、 「ももしきの 大宮人は 暇(いとま)あれや 梅を挿頭(かざ)して ここに集(つど)へる」などの 梅を楽しむ野遊びの歌などがかいま見える。
あの広々とした二期倶楽部の庭園内で楽しむ野遊びは、 さぞ優雅なものだろう。 新しいライフスタイルにおけるプレゼンテーター、 北山さんの磨かれたセンスの結実である。
2010年4月 1日 卒業の季節。
立命館大学大学院経営管理研究科の 2009年度後期の卒業式が行われた。 ビジネススクールも転換期に来ている。 すでに出来上がった社会の枠組みの中に卒業生を送り出すのではなく、 新しい社会構造を立ち上げるためにこそ卒業生を送り出す時だろう。 自己に与えられた役割をチャンスととらえ、 起業して欲しいというのが私の願いである。 しかし私が教えた生徒たちが世に出て行くのは、やはりうれしいものだ。 教えるということに喜びを覚えるのは、 京都大学の仏文科の教授だった私の父の血を引いているのかもしれない。 ともあれ、学んだ最大の財は身に付けた学習内容ばかりではなく、 そこで得た友であり人脈であるだろう。 がんばれ、卒業生たち。
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